2004年を振り返る。

2004年は私も周りも,いろいろ激動だった。

転職
ご存知の方も多いかもしれないが,私は大学の卒業後から勤めてきた某SIerを2月末に退職し, 3月からは主に組み込みソフトウェアの開発に従事している。数千人規模の大手 (?!) から数十人規模のベンチャー (?) へ,わずか2年足らずで移ることについて,一部の友人からは “もったいない” と思われたり,親からは反対されたりもした。しかし私は,某SIerの体質・空気のやうなものにどうしても馴染めず,嫌気がさしていた。2chの情シ板のスレを覗くと,似たやうなことを感じつつも,なかなか行動に出られない人々が少なからずいる模様である。
で,昨年の夏頃に上司や人事あたりへ相談し,秋頃からいわゆる転職活動を始めた。かれこれ十数社受けたなかで,内定を貰ったうちの1つが,いまの勤め先である。どっちゃかと云うとハード寄りの雰囲気がして,ソフトの開発はファームウェア・ドライバ・制御系アプリあたりを得意としている模様。激しく未経験な分野だったため,応募するときも面接のときも,いろいろ不安だった。しかし,もの作りに集中できそうな環境や,面接で顔を合わせた代表戸締まり取締役・まねーぢゃ陣に好感をもち,入社の意思を固めた。
入社早々Palmwareの新規開発に投入され,その後はファームウェアの新規開発や改版を数発行い,あっちゅう感じで10か月が過ぎた。年明けには組み込みLinuxな開発が待っており,どんな萌えUIに仕立てようか,激しく楽しみである (嘘)。
3月末に開かれた歓迎会で,ちと衝撃の事実が明かされた。人事担当は私の応募書類のメールアドレスをwebで検索し,面接より前にこの日記を探し当てていたのだ。それを見た何人かは,私をオタクと思ったと云う。そしていまも,私はオタクと勘違いされたままらすぃ。それでも私を温かく受け入れたことに,いまは感謝している。萌えに詳しい人こそ少ないが,生理的に嫌う人もおらず,ハロプロ・めい喫・悟りなどのネタは,いまや社内全体に知れ渡っている。9月には,営業技術たん (当時) とJAM AKIHABARAへ行くことに成功した。これをきっかけに,社内でさまざまな萌えが普及し,萌え⇒オタク という思い込みを払拭させたいものである。
ハロプロと周辺アーティスト
W, Berryz工房美勇伝後浦なつみ,…ハロプロは今年も人が増え,さまざまなユニットができた。,その多くはファンからは熱く支持されるものの,ファン以外の人々にまでは広く知れ渡っていなかったりする。職場の先輩たちも,娘。の4期あたり*1までは判るが,それ以降は全く判らんと云う人が多い。秋からは “ラッキー7オーディション” と称して,娘。の7期生オーディションも始まった。ただ,ここでどれだけすごい娘が入っても,既存のファンの押し順が動くだけで終わったりしたら,やはりさみすぃ。
悟りと同人
かつらたんやゆき。たんあたりの参加する「天竺写真集プロジェクト」で事故などが相次ぎ,足りなくなった撮影人を補うために,私が呼ばれてしまった。こんなイパソが参加して,だいじょぶかいな…と云う不安はどこへやら,みな私を温かく (?) 迎えてくれた。
11/2の夜にiChatでなんとなく “がお…” と云ったら,なぜかかつらたんが喜び,翌日のおふでAirの制服を着せられた。週末の東海撮影会では,私は撮影だけのはずだったが,数人に押さえられてセーラー服を着せられた。そんなこんなで,萌え服を着る自分も悪くないなぅと思いはぢめ,萌え服を着こなす面々をうらやみ,私も悟ってしまった。ほぼ瞬殺で「悟りを開いた人Wiki」に捕捉され,わずか1週間で数百のアクセスをいただいた。SHAZNAファン時代からもち続けた,かわゆくなりたい願望が,少し叶った。
「天竺に旅立った人写真集」の撮影やへんしうを通じて,多少なりとも同人ものの制作の楽しみ (と修羅場) を知ることができた。

*1:誰が何期メンバーかすら,正常に把握できていない模様…